レトロ

2013年10月24日 (木)

【レトロ】今一度KKドラフトを考える

あまりにもブログの更新をしないので、「生きていたのか」という声もありましたが、ちゃんと生きてます(笑)。

さて、今日、プロ野球のドラフト会議が開催されましたが、日刊スポーツに清原和博「オレの魂」というコラムが掲載されました。清原本人は、「ドラフトについて語るのは最初で最後だろう」と書いていますが、ここで、今から28年前の“KKドラフト”を思い出してみたいと思います。

当時のことを知らない人もいるでしょうから、簡単に振り返ってみましょう。1985年のドラフトでは、夏の甲子園を制したPL学園の清原と桑田に注目が集まりましたが、桑田は早くから早大進学を表明し、一方の清原は巨人を熱望していました。
もちろん、指名が競合した場合は抽選になるわけで、希望通りにいくとは限らないのですが、現実は想像しなかった、(清原にとっては)残酷なものとなりました。

なんと、進学希望を表明していた桑田は巨人が単独指名。清原には6球団が競合し、抽選の結果、西武が交渉権を獲得しました。

この時の清原の涙の記者会見は、その後何度も取り上げられており、野球ファンなら一度は目にしたことがあるでしょう。当時の報道では、当初は、高校生の気持ちをもてあそぶような球団の姿勢を批判するものもあったと記憶しています。が、その後、桑田は巨人から指名されること知っていたのでは、との疑惑が浮上し、桑田が批判にさらされることになります。

清原は、当時のことを、チームメイトが「許せん」と言って、金属バットを持って桑田を探し回ったり、学校に抗議や脅迫が殺到した、と振り返っています。
巨人の指名を受けた桑田が、「巨人に指名されてうれしい」「指名されたら行かないと言った覚えはない」と言ったとされ、このことから、巨人と密約があったのではないかとの憶測が流れました。

その後の関係者の話などから、桑田が本当はプロ志望で指名されたら入団する、という情報を西武もつかんでおり、西武は清原を外したら桑田を指名する、という情報を聞いた巨人が、直前に1位指名を変更した、というのが真実であるということです。

当時、社会人一年生だった私の最初の感想は、「また巨人か」というものでした。江川事件の記憶もまだ鮮明だったこの頃、巨人が仕組んだ陰謀だと勝手に想像してのものでした。
ただ、当時の巨人は王監督だったことから、偉大すぎて批判することができず、その分桑田に批判が集中した面もあり、また、まだ高校生がここまでの筋書きを描けるとは思えず、多少、桑田に同情した部分もありました。

この結果、清原は涙を飲んで西武に入団します。1987年の巨人との日本シリーズで、最終戦の試合終了直前に守備位置で涙を流したことは、語り草になっています。
清原自身も、西武に入団して良かったと振り返っていますが、FAで巨人に移籍する際、「くじ引きで自分の人生を決められたので、自分の夢をかなえたい」みたいなことを言っており、この頃はまだ、ドラフトの一件を引きずっていたのだろうと思います。

ただ、憧れの巨人に入団したものの、決して満足できる成績ではなく、ナベツネに屈辱的なことを言われたりと、「巨人は富士山のよう。遠くから見ると憧れの対象だが、登ってみるとゴミだらけ」という感想を述べたとされています。

清原は、たとえ行きたくない球団であっても、指名されたら行きべき、と言っています。例として、弱小時代の楽天に入団したマー君を挙げ、逆の例として菅野を挙げています。(個人的に付け加えるなら長野も)
サラリーマンでも、希望の部署で働ける人は少ないはずで、我を通すより与えられた環境で結果を残す方に共感を覚える人が多いはずだとも言っています。
これに関しては、おおむね同意しますが、自分ですべて責任を負うのであれば、我を通すのもアリ、と個人的には思います。菅野であれば、ブーイングするファンを黙らせる成績を残すしかないでしょう。江川のように、そのキャラでダーティーイメージを払しょくすることはできそうにないので。

さて、ここからがこのコラムの肝です。
桑田に関して、どこか暗いイメージがつきまとうのは、ドラフトの影響であることは疑いありません。もう清原には、ドラフトの一件を問題にするつもりはないようです。清原が問題にしているのは、早大を隠れみのにして巨人に入団しながら、退団後に早大大学院に進んだことです。

桑田が早大をそでにして以降、PL学園からは一人も早大に進学しておらず、一時期は六大学すべてから受け入れてもらえなかったそうです。それほどまでに桑田の行動は多方面に影響を及ぼしている訳で、この事実に対し、桑田は何の配慮もしていないのでは、ダーティーイメージを拭い去ることはできないでしょう。

確かに、KK以降のPL学園は、すぐ下の世代には立浪、片岡、野村、橋本ら錚々たるメンバーがいましたが、宮本が引退した今、現役には、広島のエース・マエケンと阪神の福留くらいしかいません。
PL学園の凋落の原因が桑田の行動にあるなら、その罪は大きいと言わざるを得ません。

KKに対する私の感想は、清原は純粋すぎて、桑田は無神経すぎる、というものです。
両者がもし、野球をやっていなくて、一般社会にいたらどうだったか。
ドラマ仕立てなら、清原が桑田に「倍返し」するかも知れませんが、現実社会は勧善懲悪ばかりではありません。
清原は、ストレートすぎて大組織のトップにはなれないかも知れませんが、面倒見がよく取引先からも慕われる中小企業の社長タイプと思います。一方の桑田は、ずる賢く立ち回りのし上がっていきそうですが、常に敵を作るタイプで、いつ足元をすくわれるかわからない状況に置かれそうな感じです。また、一時、「投げる不動産屋」などと揶揄されたように、金銭トラブルで失脚するのかも知れません。

最後の部分は私の妄想です。ファンの皆様、すみません・・・。

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2013年8月10日 (土)

【レトロ】夏の甲子園最高の激闘は?

GWからいきなり真夏に飛ぶという、いかに作成者が怠慢であることを示す事態となってしまいました。

さて、今年で95回目を迎えた全国高校野球ですが、過去には数々の名勝負が繰り広げられましたが、その中で、最高の激闘はどの試合か?というテーマを考えてみたいと思います。

まず、延長25回という現在ではありえない戦いとなった中京商-明石中。ただ、これは昭和8年(1933年)のことであり、さすがに古すぎて記憶している人もほとんどいないと思われます。両校の選手のうち、最後まで生存していた方も、2008年に亡くなっています。

戦後の記録で見ると、昭和33年(1958年)準々決勝の徳島商-魚津は、初の延長18回引き分け再試合となりました。坂東-村椿の投げ合いで知られ、その後坂東英二の活躍もあって、記憶に残る一戦となりました。(もちろん私はリアルタイムでは知りません)。

続いて、昭和44年(1969年)決勝の松山商-三沢の延長18回引き分け再試合。この試合は、私が松山商の地元出身であることから、記憶に残っています。延長戦突入後、松山商は2度の満塁のピンチを凌いで引き分けに持ち込みました。
三沢の投手は太田幸司。東北勢がもっとも優勝に近づいた試合でしたが、再試合で敗れ、それ以降も東北勢は未だに優勝旗を手にしていません。

そして、昭和54年(1979年)の箕島-星稜の延長18回です。2度リードされながらいずれもホームランで追いつき、ついに18回、箕島がサヨナラ勝ちします。

平成に入ってからは、平成10年(1998年)準々決勝横浜-PL学園の延長17回、平成18年(2006年)決勝の早稲田実-駒大苫小牧の延長15回引き分け再試合があります。

この中で、最高の激闘を選ぶのは難しいのですが、最初の3つは0-0の試合で、リードされて追いつくというスリリング度で劣る。平成に入ってからの2戦は、当事者がまだ現役バリバリであり、このブログの趣旨に合わないという勝手な理屈で却下。

よって、箕島-星稜を史上最高の激闘とします。この当時、私は高校生で、当然、この試合をリアルタイムで見ています。どこがすごかったかと言うと、延長戦突入後、2度リードされた箕島が、いずれも2死からホームランで追いついたこと。特に16回裏の森川選手の一塁ファールフライを星稜一塁手が落球し(取っていれば試合終了だった)、直後に同点ホームランが飛び出したことは語り草になっています。
それ以外にも、14回裏、箕島のサヨナラのチャンスで、三塁走者が隠し球で刺されるなんてこともありました。

実際、この試合を高校野球史上最高の試合とする人は多く、多数の書籍にもなっています。
この年、箕島は優勝し、春夏連覇を達成しました。箕島の石井毅-嶋田宗彦のバッテリーは共に住友金属に入社、都市対抗野球で優勝します。その後、石井は西武に、嶋田は阪神に入団し、それぞれ日本一を経験します。二人とも、高校、社会人、プロですべて日本一になっています。
一方、星稜には、その後広島、中日で活躍した音重鎮がいました。音という珍しい姓だったので記憶に残っています。

今大会、両校は揃って甲子園に出場。残念ながら、両校とも初戦で敗退し、対戦は実現しませんでした。
その中で、面白いエピソードがありました。伝説の試合で16回裏、森川選手のファールフライを落球した(正確には転倒して捕球できなかった)加藤一塁手の息子が途中から父と同じ一塁の守備についたのです。残念ながら、ファールフライを捕る機会はありませんでしたが、父から「甲子園は1球で人生が変わる」と教えられてきた加藤選手は、この舞台に立てただけでも幸せだったと言うべきでしょう。

この伝説の試合、あの加藤一塁手が転倒せず捕球し、試合が終わっていたら、ここまで語り継がれることはなかったでしょう。

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2013年3月30日 (土)

【レトロ】別れの季節に思い出す名曲「なごり雪」

“汽車を待つ君の横でぼくは時計を気にしてる

 季節はずれの雪が降ってる”

“あーだから今夜だけは 君をだいていたい

 あー明日の今頃は 僕は汽車の中”

“恋人よぼくは旅立つ 東へと向かう列車で”

1970年代に流行った歌の歌詞を並べてみました。40代以上の方には説明不要でしょうが、1曲目がイルカの「なごり雪」、2曲目がチューリップ「心の旅」、最後の曲が太田裕美「木綿のハンカチーフ」です。

春は別れの季節です。卒業・就職や、転勤・異動などによって、今日もさまざまなわかれが展開されていると思います。

この3曲に共通するのは、別れを歌っているということと、その舞台が列車であるということです。「電車」と言わず「汽車」「列車」と歌っているところが、時代を感じさせます。
後の2曲は、季節は不明ですが、勝手に今の季節の歌であると解釈し、話を進めます。

以前に、この3曲について、別れと列車をテーマにしたコラムを読んだ記憶があったので、並べてみたのですが、やはり別れには列車が似合うということでしょうか。
もっとも、さだまさしの「フェリー埠頭」という曲では、飛行機も汽車も涙乾かすには短か過ぎるからフェリーにした、と歌われています。確かに船には他にはない哀愁があると思いますが。

ともかく、最初に取り上げた「なごり雪」ですが、多くの歌手によってカバーされており、海外でも歌われている名曲ですが、ショーヤン(正やんとも)こと伊勢正三の作詞・作曲で、「かぐや姫」のアルバム「三階建の詩」に収録されたのが最初になります。

数多くの作詞・作曲を手掛けたショーヤンですが、詩の美しさでは、この「なごり雪」がNo.1であると、個人的に思っています。

これだけ有名な歌なので、歌詞に関しても、さまざまな解釈がされているようです。
はっきり歌われているとおり、季節は春、場所は東京のどこかの駅。ショーヤンは九州出身なので、「君」は九州へ帰っていくのだと考えられます。現在、東京から九州へ行く列車は新幹線しかなくなってしまいましたが、当時は九州へ向かう長距離列車が多数ありました。

“動き始めた汽車の窓に顔をつけて 君は何か言おうとしている

 君の口びるが「さようなら」と動くことが こわくて下を向いてた”

この歌で、もっとも美しいと感じる部分です。確かに、新幹線はもとより、現在の加速がいい電車では速すぎ、昔の客車がゆっくりと動き出すのが似合っていると思います。

さて、この歌の主人公の2人は、なぜ別れることになったのか。これがこの歌の最大の謎です。後の2曲は、明らかに「旅立ち」であり、「別れは旅立ち」であることは、他の歌にも歌われているように、別れは悲しいことであると共に、新たな希望でもあるということです。

ただ、この歌の2人は、そのような状況であったのでしょうか。おそらく、“ふざけすぎた季節”とは学生時代のことであり、卒業によって「君」は故郷に帰って行くのだとすれば、そういう解釈も可能でしょう。

しかしながら、ショーヤン自身も会心の出来だという、サビのフレーズ、

“今 春が来て 君はきれいになった

 去年よりずっと きれいになった”

これについては、“時がゆけば幼い君も 大人になると気づかないまま”のフレーズから、「君」の変化に気づかず愛が終わることになり、別れの段階で「ぼく」はそれに気づいて後悔している、と解釈するのが妥当と考えています。

“君が去ったホームに残り 落ちてはとける雪をみていた”

うーん、いいですね。今は、ホームに雪が降るような駅は、東京にいくつあるでしょうか。

70年代。団塊の世代が若者だった時代。この時代が、現在、見直されているようですが、人の出会いと別れは、いつの時代も人生のテーマであるのでしょう。

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2012年7月12日 (木)

【レトロ】「週刊少年チャンピオン」の黄金時代と「マカロニほうれん荘」

貧乏人のT君から、長らくブログを更新していないとのクレームがあり、ネタを考えていました。

当初、いやがらせ?のために、T君が読みそうにないネタにしようかと考えていましたが、ふと思いついたのが、昭和の時代の漫画の話です。これなら、T君にも読んでもらえるかな・・・。

少年漫画雑誌といえば、「週刊少年ジャンプ」(集英社)と「週刊少年マガジン」(講談社)が首位争いを繰り広げるという歴史が続いています(他に小学館の「週刊少年サンデー」があり)。が、ある一時期、この2誌から首位を奪った少年漫画雑誌があります。
秋田書店の「週刊少年チャンピオン」です。

先行して創刊した「マガジン」「サンデー」に対し、「ジャンプ」と「チャンピオン」は1969年創刊と後発でしたが、「ジャンプ」は1973年に首位に踊り出ます。

これに対し、「チャンピオン」は、壁村編集長を擁してヒット作を揃え大躍進。1977年には首位を獲得します。

当時の「チャンピオン」は、水島新司「ドカベン」、山上たつひこ「がきデカ」が二枚看板で、他に、手塚治虫「ブラック・ジャック」、藤子不二雄「魔太郎がくる!」、石井いさみ「750ライダー」、ドラマ化された、望月あきら「ゆうひが丘の総理大臣」と古賀新一「エコエコアザラク」など、そうそうたるラインアップでした。

そんな中、彗星のごとく現れ、一世を風靡した漫画があります。
鴨川つばめの「マカロニほうれん荘」です。

当時、ドタバタ劇のギャグ漫画としては、「がきデカ」が大人気で、これに同じ雑誌で対抗しようというのは、一見、無謀に思えました。

ところが、連載されるや人気が沸騰し、二枚看板と並び称される大人気作品となります。

この作品、最初は、1977年4月増刊号に「呪われた夜」というタイトルで、「ニューフェイスの特別参加」と題して掲載されました。
私は、この時、リアルタイムで「チャンピオン」を買っており、記憶にありますが、扉を見て、最初は怪奇漫画かと思いました。
ところが、開けてみるとギャグ満載!ただ、絵は非常に丁寧でした。しかしながら、鴨川つばめという無名の漫画家で、この時は、大ヒットすることは予想できませんでした。

「マカロニほうれん荘」の連載が始まると、学校でも「面白い漫画が始まった」と話題になりましたが、私は、特にきんどーさんのあのポーズとセリフを見て、「下品な漫画だ」と言った記憶があります。

「がきデカ」が子供が主人公で、子供向けのギャグ漫画だったのに対し、「マカロニほうれん荘」は、主人公の沖田そうじは高校生だが、ひざかたさんときんどーさんは落第生という設定で、きわどいギャグの中には、子供では理解できない(少なくとも高校生以上)ようなものもありました。

このように、またたく間に大人気作品となった「マカロニほうれん荘」ですが、作者自身の消耗やスタッフとの確執などから、たった2年半で最終回を迎えてしまいます。

その後、鴨川つばめは、続編を描いたり、ペンネームを変えて作品を描きましたが、この作品を超えることはありませんでした。後に、「消えた漫画家」として取り上げられたこともあります。

1970年代後半の、チャンピオン黄金時代を語る時、「ドカベン」「がきデカ」とともに、この「マカロニほうれん荘」が挙げられることが多く、短期間だけパッと咲いて散った一発屋でありました。

この作品の単行本は、現在も売られており、当初の「チャンピオンコミックス」版も、古書ではそれほど高い金額ではないようです。
ただ、単行本未収録の作品もあり、それが掲載されている号は、古書でも高い値が付いているそうです。

古書店巡りは趣味の一つですし、これからレトロな漫画を求めてみようかと考えています。

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2012年4月 8日 (日)

【レトロ】昭和の面影を残す聖橋からの風景

まず最初に、「檸檬」-これはなんと読むでしょう。

正解は、「れもん」です。

このブログの趣旨からすると、梶井基次郎の小説(ただしミステリーではない)を思い浮かべる人が多いかと思いますが(そんなの知らないか?)、ここで取り上げるのは、さだまさしの「檸檬」です。

さだまさしの歌も、梶井基次郎の小説をもとにして作られたようですが、小説の舞台が京都であるのに対し、歌の方は御茶ノ水が舞台です。

この曲に、次のような一節があります。

喰べかけの檸檬 聖橋から放る
快速電車の赤い色がそれとすれ違う

この聖橋(ひじりばし、これも難読)とは、JR御茶ノ水駅から湯島聖堂方面に向かう所にある橋で、歌い出しで湯島聖堂も登場します。

Img_6671 先ほどの歌詞に、この橋から檸檬を放ると電車とすれ違うと歌われています。

Img_6667 聖橋からの風景。下を流れるのは神田川。右手に見えるのがJR御茶ノ水駅です。この付近は道路が坂上にあり、JR御茶ノ水駅を見下ろす形になります。JR駅は、いわゆる橋上駅で、改札口はホームから上った所にあります。

写っているのは中央線快速電車。現在はステンレス車両に赤いラインのものに置き換えられましたが、歌にある、全面が赤い(というよりオレンジ色)塗装の車両がごく最近まで走っていました。

この「檸檬」が流行ったのは30年以上前のことで、私は大学入学のために上京した際、この歌にある風景を見たくてここに来たのを記憶しています。

もうひとつ、ここの風景で面白いのは、手前側を走る線路。これは何かというと、地下鉄丸ノ内線なのです。地下鉄も、神田川の下を通すのは難しかったのか、ここだけ地上に出ています。
ここは、写真撮影に絶好のスポットなのか、カメラを構える人が複数いました。

Img_6669 丸ノ内線の車両も、現在は赤いラインをまとっていますが、以前は全面赤い(こちらは正真正銘の赤)塗装の車両でした。歌の中の赤い電車は、こちらの方がふさわしいのでは、と当時思ったものです。

ところで、ここの風景、昭和の頃とあまり変わっていないように思えます。前方に見える秋葉原の街はかなり変貌を遂げたのですが、JR御茶ノ水駅は、快速と各駅停車の乗り換え駅にしてはホームも狭く、川沿いにあるため、事故が起こらないかいつも不安に感じます。

また、地下鉄丸ノ内線御茶ノ水駅は、この写真の左側にあり、JR御茶ノ水駅から乗り換えるには、この聖橋を渡らなければなりませんが、そういった部分も、一向に改善される気配はありません。ただし、地下鉄千代田線の新御茶ノ水駅は、JR御茶ノ水駅の近くに入口があります。

この地は、地形上、改善するのが困難なのでしょう。かつては学生の街として賑わった御茶ノ水(ガロ「学生街の喫茶店」もこの街がモデルとされる)ですが、大学の移転もあり、若者の街は隣りの秋葉原などに移り、時代から取り残されていくように見えますが、団塊の世代の方などは、あの時代を思い出させてくれる風景ではないでしょうか。

なお、このあたりに詳しい方には、この後、東京十社のひとつ、神田明神に行ったのだろう、とツッコミを入れられそうですが、それは今後のお楽しみに。

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2011年10月16日 (日)

【レトロ】優勝決定試合で行われた醜い首位打者争い

またまた野球ネタです。

両リーグの情勢もあらかた決まって、興味はポストシーズンに移りますが、この時期、もう一つの興味は、個人タイトル争いです。

かつては、優勝決定後の消化試合で、醜いタイトル争いが繰り広げられ、「ファン無視」の批判を受けたことがありましたが、クライマックスシリーズの導入後は、完全な消化試合というものが減った関係からか、こうしたタイトル争いが見られなくなりました。
CSに関しては、賛否両論がありますが、こういった効果もあるということでしょう。今年にしても、もしCSがなかったら、10月初旬には、中日とヤクルト以外は実質的に消化試合であった訳ですから。

プロ野球人気の低迷から、ニュース番組での日本プロ野球の報道時間が短くなっています。かつてフジテレビでは、「プロ野球ニュース」という番組が地上波で放送されていました。
この番組は、プロ野球をもっとも詳細に報道する番組でありました。地上波からは姿を消してしまいましたが、現在もCS放送「フジテレビTWO」で毎日放送されています。
現在、プロ野球の結果報道では、この番組とJ SPORTS 1の「野球好きニュース」が双璧となっています。

先日、このプロ野球ニュースに関根潤三氏と田尾安志氏が出演していましたが、話が個人タイトル争いに及んだ時、私は、その昔、この2人が関係した醜いタイトル争いのことを思い出しました。

1982年のセ・リーグは、中日と巨人の激しい優勝争いとなり、全日程を終了した巨人と3試合を残した中日がゲーム差なしで並び、10月16日からの大洋(現横浜)との3連戦で中日が負け越さなければ優勝、という状況でした。

一方、首位打者争いは、大洋の長崎啓二(本名は慶一)と中日の田尾安志の争いとなり、3連戦を前にして、長崎が1分2厘差を付けてトップ。大洋は5位が確定しており、長崎は打率維持のために3連戦は欠場していました。
ほぼ逆転は不可能と思われていましたが、田尾は初戦に2安打、第2戦に4安打して、長崎に1厘差まで迫ります。ちなみに、第2戦では、大洋バッテリーは田尾を敬遠していません。これは、斎藤明夫投手(ちなみにこの斎藤も現在「プロ野球ニュース」に出演している)の最優秀防御率のタイトルがかかっていたためと思われます。もっとも、田尾の打率を計算して勝負していたとは思いますが。

1勝1敗で迎えた10月18日の最終戦。この試合で中日が勝つか引き分けで優勝。この日は月曜日でしたが、優勝決定試合ということで、フジテレビが急遽実況中継をすることになります。

全国の野球ファンが注目する中、先頭打者の田尾がバッターボックスに入ると、大洋バッテリーはいきなり敬遠します。これは、バッテリーの判断である訳がなく、ベンチの関根潤三監督の指示であることは疑いありません。
1番バッターをすべて出塁させるという作戦は、負けを覚悟しているというに等しく、これを「敗退行為」だとして非難する声が上がったのも頷けます。私が巨人ファンであったなら、同様に批判していたでしょう。

試合は8-0と中日の大量リードで9回表、田尾に5打席目が回ります。当然のようにキャッチャーが立ち上がっての敬遠。ところが、3ボールからの4、5球目、田尾は敬遠球を故意に空振りします。大洋ベンチを何度も見やりながらの行為で、5打席連続敬遠への抗議の意味であったことは明らかです。
あわてて中日コーチが田尾に駆け寄り、田尾は6球目を見逃がし、一塁に歩きます。皮肉なことに、この出塁によって、田尾は掛布雅之(阪神)と並び、最多出塁数(当時は出塁率ではなく出塁数だった)のタイトルを獲得します。

直後に中日はリーグ優勝を達成しますが、数多くあった醜いタイトル争いの中で、このケースが悪質なのは、消化試合でなく、優勝決定試合で行われたという点にあります。
行為そのものの悪質性なら、1998年の小坂(ロッテ)と松井(西武)の盗塁王争いでの、西武投手の故意の牽制悪送球、故意のボークがワースト1でしょう。

関根監督は、この選択をしたことに関し、多くを語りませんでした。しかしながら、この一件にによって、勝負師としては失格であったことを証明してしまった訳で、その後、ヤクルトの監督も務めましたが、万年Bクラス監督というレッテルを貼られてしまいます。
極端に私情をはさまない采配をした落合監督に対し、明確に批判するコメントをしなかったのも納得できることです。

その後、田尾は西武に、長崎は阪神にトレードされ、両者は1985年の日本シリーズで対戦します。ここで長崎は満塁ホームランを放つなど、阪神を初の日本一に導き、日本シリーズMVPを獲得します。
1987年には、田尾が阪神にトレードされ、両者はチームメイトになりますが、長崎は同年に現役引退します。田尾は、期待されながら、中日時代の輝きを取り戻すことはできず、ついに首位打者のタイトルを獲得することはできませんでした。

田尾は、徒党を組むことを嫌う一匹狼的な選手であったと言われ、それがトレードにつながり、実力を発揮できずに終わったとする意見もあります。楽天の初年度監督を務めながら、1年で解任されるなど、損な役回りをさせられているようなイメージはぬぐえません。

結局、この1982年の首位打者争いは、かかわった人々に暗い影を落としたと見るのはうがちすぎでしょうか。現在は、何事もなかったかのように共演している関根氏と田尾氏ですが、先日の放送では、個人タイトルの話の際、一瞬口ごもったように見えたのは、この時のことを思い出したのでは、と疑ってしまいました。

ところで、この1982年には、青木、畠山(ヤクルト)、栗原(広島)、内海(巨人)、中島(西武)、内川(ソフトバンク)など、今年タイトルを争った選手たちが生まれています。いやはや、月日の経つのは早い。

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2011年10月 5日 (水)

【レトロ】落合博満を語る

プロ野球も大詰めを迎えています。パリーグはすでにソフトバンクの優勝が決まり、CS進出争いもほぼ決着がついた感があります。それに対し、セリーグは、安泰と思われたヤクルトが中日の追い上げに遭い、明日にも首位が入れ替わりかねない状況です。

そんな中、2人の監督が、シーズン終了を待たずに勇退を発表しました。中日の落合監督と日本ハムの梨田監督ですが、CS進出確定的、優勝もまだ狙える段階での発表に、「なぜ?」という疑問の声が上がりました。
ところが、監督勇退の発表後、日本ハムは成績が急降下し、2位も危ない状況に追い込まれたのに対し、中日は快進撃を続け、ついに首位に並ぶところまできました。

ここでは、その落合監督について、勝手に語ってみたいと思います。

落合博満は、秋田工業、東洋大学と野球部に所属していましたが、体育会系の雰囲気になじめず、東洋大学を中退しています。当時の野球部は、体育会系独特の思想が支配していたようで、落合の代名詞である「オレ流」が通用する世界ではなかったようです。

その後のスポーツ界は、イチローや中田英寿のような自己を貫く選手が評価される時代になりましたが、落合は出現が早すぎたのかも知れません。

東洋大学を中退した落合は、東芝府中に所属し、1978年のドラフトでロッテの3位指名を受け入団しますが、この年のドラフトは、「江川事件」で揺れ、巨人がドラフトをボイコットしました。巨人は、ボイコットしなければ、落合を指名する予定であったという話があり、後年実現した「巨人の落合」は、入団時に実現した可能性もあった訳です。

アマ時代は、全日本代表に選ばれたものの、さして注目された選手ではなかったため、地味な存在でしたが、以前、このブログに書いたように、イースタンの試合で、江川の球を打ち、凡フライと思った江川がマウンドを降りかけていると、打球はフェンスを越えた、ということもあり、非凡な打撃センスは見せていました。

落合の打法は、「神主打法」と呼ばれていましたが、これは落合がロッテ時代に自身で完成させたもので、これを酷評した金田正一と敵対し、後年、名球会入りを拒否しています。
金田ほどの大物に対しても、自己を貫くというのは、「オレ流」たるゆえんでしょう。

1981年、首位打者を獲得、1982年には三冠王に輝きますが、この時代で記憶に残っているのは、年俸へのこだわりです。当時、「野球選手の年俸は安い」と主張する江川とともに、後の選手の権利主張、年俸アップにつながったと言っていいでしょう。

そして、1986、87年と2年連続で三冠王を獲得しますが、この年のオフは落合のトレード話で持ち切りでした。マスコミでさかんに報道されたのが巨人入りでしたが、中日へのトレードが伝えられた時は驚きでした。
この落合の中日入りは、自分的に「昭和のプロ野球三大衝撃」としています。ちなみにあとの二つは、江川の空白の一日とKKドラフトでの巨人の桑田指名です。

落合はトレードされた中日との契約で、年俸1億円を達成します。これが日本プロ野球の年俸1億円第一号です(同年、西武の東尾も達成)。三冠王を3度取って、やっと1億に達したのですから、「野球選手の年俸は安い」という主張は、今にして思えば納得できる気がします。ただ、その主張をした江川は達することなく引退しています。

長くなるので、その後、巨人、日本ハムと移籍した現役時代は省略し、話はいきなり中日監督時代に飛びます。
7年間すべてAクラス、3度のリーグ優勝、1度の日本一。今季もAクラスは確定で、優勝の可能性もあるのですから、監督としての実績は申し分ありません。それでいて、なぜ勇退なのか?という疑問が付きまといます。

落合監督を語るには、欠かすことができないのが、2007年の日本シリーズ第5戦の、完全試合目前の山井投手の交代でしょう。
これについては、賛否両論あることを承知の上で、自分の意見を述べます。

この試合、私はテレビ観戦していましたが、解説者(誰か忘れました、スミマセン)も驚き、「日本シリーズの完全試合、見たかった」と言っていました。当日のニュースで、星野元監督や野村監督(当時)も否定的なコメントをしていたので、「やっぱりそうだよな」と思い納得していました。

ところが、その後、当時の現役監督である王監督、岡田監督だけでなく監督経験があるOBまでもが采配に賛成意見を述べ、その年の正力松太郎賞にも選出されていました。

私は、これらを見て、こんな事だからプロ野球人気が低迷するのだと思いました。賛成意見の主たるものは、「勝負に私情を挟まない」「レギュラーシーズンと違い、ポストシーズンは記録は関係ない」といったものでした。
中日は、この年まで、楽天を除く11球団でもっとも日本一から遠ざかっており、絶対に勝たねばならない使命があったことは理解できます。落合監督にしてみれば、山井個人の記録よりチームの53年ぶりの優勝を優先し、それを評価する声が多いのは、一見すると正当な意見のように見えます。

私がこれらの意見に断固反対する理由は、そこにはファンの存在、興行という視点が欠けているからです。ポストシーズンとはいえ、プロ野球は基本的に興行であり、ファンの存在なしには成り立たないものです。この采配に賛成意見を述べた人々は、野球さえやっていればファンが見てくれたよき時代の発想から抜け出せていないのだと思います。

リアルタイムで見ていた者にとっては、某解説者が思わず言ったように、「日本シリーズの完全試合が見たかった」のであり、もしそれが実現されれば、後世まで語り継ぐでしょう。
王監督の言うとおり「記録は関係ない」のかも知れませんが、人々の「記憶」には大いに影響するのです。
この采配によって、「日本シリーズ優勝決定試合での完全試合」が単なる「中日の53年ぶりの日本一」に矮小化されてしまい、もうすでに記憶から消えつつあります。もっとも、落合監督の非情な采配として語り継がれるのは、本人にとっては満足かも知れませんが。

落合監督勇退の理由には、その一つとしてファン離れが挙げられていますが、これは監督だけの責任ではないでしょう。ただ、マスコミに対する態度や、応援してくれる地元財界への気配りのなさは、事実であれば問題でしょう。

私は、WBCの監督問題があった際、もっともふさわしいのは落合だと思っていました。すなわち、勝つことだけが評価される試合では、知将と言われるこの人の力量が生かされます。
しかしながら、興行の側面を持つプロ野球の監督は、結果を残すだけでなく、見る者に伝えるスポークスマンの役割も果たさなければなりません。こうした視点に欠けていたことが、今回の勇退につながったのでは、と想像しています。

過去に、広岡達郎、野村克也という、必ずしも万人受けしない名将がいましたが、広岡元監督は、マスコミに厳しいことを言うことによって、自分の方針をファンに伝えていたと取ることもできます。野村元監督は、南海時代はともかく、晩年はボヤキが有名でしたが、これこそ明らかにファンサービスとしてやっていたことは明白です。

落合監督には、ノムさんのように、歳を取るごとに角が取れ、ファンサービスもできる知将として球界に戻ってくることを期待します。

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2011年9月20日 (火)

【レトロ】今、「オレたちひょうきん族」を思い出してみる

3万アクセス達成で安心した訳ではないのですが、約1ヶ月、更新を怠ってしまいました。

本日でブログ2周年ということで、何かネタはないものか?と考えたのですが、なかなか思いつかない。

ここ一月の話題と言えば、島田紳助の突然の芸能界引退。ただ、この件に関しては、世のブロガー多数が取り上げており、このブログの趣旨にも合わないので、論じるのは控えておきます。

ただ、先日、ビートたけしがこの件についてコメントを求められ、いささか歯切れが悪かったのですが、「漫才ブームの頃の紳助しか知らない」という発言があったので、漫才ブーム当時の頃を思い出してみたいと考えました。

ここでいう「漫才ブーム」とは、1980年頃、やすきよに続く若手漫才師が次々と人気を獲得した時代で、その代表格が、B&B、ツービート、紳助竜介でありました。

当時、私は、大学受験を控えた身で、高校の先生は、おおむね漫才ブームに対して批判的でしたが、「受験勉強の気分転換になる」と言った個性的な先生もいました。
漫才は当然、コンビでやるものですが、島田洋七、ビートたけし、島田紳助のしゃべりは突出しており、やがてピンで活躍するようになります。

そして、彼らを語る上で欠かせない番組が、1981年に始まった「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系、土曜20時)でありましょう。

ここで、当時のテレビ事情を思い出してみます。今では信じがたいのですが、1960~70年代の民放の視聴率はTBSの独走状態で、老舗の日本テレビが続き、2強と呼ばれていました。
土曜夜8時は、週休2日でなかった当時は、スーパーゴールデンタイムと言ってよく、ここにはTBSの「8時だョ!全員集合」というお化け番組が君臨していました。さらに、当時は高視聴率だった巨人戦もあり、フジテレビは大苦戦していました。
当時の人気番組は、視聴率が30%を超えるのは普通のことで、ひとケタの番組は打ち切られるという非情な時代でした。

そこで放送開始したのが「オレたちひょうきん族」だったのですが、ジリジリと「8時だョ!全員集合」を追い詰め、ついに視聴率で逆転します。この頃からフジテレビの躍進が始まり、1990年代、日本テレビの逆襲に遭うまで民放の雄として君臨することになります。

この「オレたちひょうきん族」、今思えば、ビートたけし、明石家さんま、島田紳助、片岡鶴太郎、山田邦子など豪華レギュラーが勢ぞろいした番組でありましたが、逆に言うと、この番組が彼らをメジャーにしたとも言えるでしょう。
さらに、大阪の吉本興業と東京の芸能プロが協力して番組を作ったという点でも画期的でした。また、局アナがバラエティー番組に出演するというのも、当時はまだなかったことで、番組演出なども含めて、後のバラエティーのスタンダードを作ったと言えるでしょう。

番組の内容自体は、「くだらない」で片づけてしまえばそれまでですが、視聴者に受けるコーナーを次々と考え出し、豪華ゲストも招聘するなど、プロデューサーの熱意みたいなものが感じられました。

現在、テレビ離れが進み、特に地上波民放の劣化ぶりには目を覆うばかりですが、バラエティーに関して言えば、最大の原因は企画力の低下でしょう。優秀なプロデューサーが不在で、製作は下請けに丸投げ。こういった状況から、紳助のようなタレントに番組の企画まで頼ることになり、やがて番組が私物化され、つまらない内輪ネタに終始する番組になり下がってしまう。スポンサーの広告費削減による、製作費の減少といった事情もあるのでしょう。

今回、紳助が去り、バラエティー番組はどう変わるのか。紳助を嫌悪していた人々からは、歓迎する意見もあるようですが、現在の民放の状況から、劇的な改善は望むべくもありません。

現在は、BS、CSもあり、自分が見たい番組を自由に選べる時代ですから、見たくない人は見なければよいということになるのですが、そういった選択肢がない環境にある人も多い訳で(特に高齢者)、番組制作者には、もう少し努力していただきたいように思えます。

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2011年6月 3日 (金)

【レトロ】「子連れ狼」の主題歌の場所とは

今回は、40代以上の方限定の話題になるかと思います。

昭和48年(1973年)から、日本テレビ系列で放映された時代劇ドラマ「子連れ狼」(拝一刀=萬屋錦之助・大五郎=西川和孝版)の主題歌をYou Tubeで見つけました。

「子連れ狼」の主題歌というと、「しとしとぴっちゃん・・・」の橋幸夫を思い出す人が多いと思いますが、これが主題歌になったのは、大五郎が佐藤たくみに代わった第三部からで、西川和孝主演の第一部、第二部は、ハーブ佐竹の「ててご橋」という歌でした。
橋幸夫の歌より、こちらの方が「子連れ狼」の世界観に合っているとの評価があります。

ててごと ははごと ごとごとと 一石橋で待てばよい」のコーラスで始まり、歌い出しが「迷子になったら どこで待つ」なのですが、この歌を聴いた当初は、この歌詞の意味がわからず、その意味がわかったのは、ずっと後になってからです。

歌詞に出てくる「一石橋」は実在し、この橋のたもとに「満よひ子の志るべ」というのがあり、迷子や尋ね人の告知板の役割を果たす場所であったということです。

この一石橋の名前の由来は、橋の両端に後藤家があり、両家の援助で橋が再建されたことから、「五斗と五斗(後藤と後藤)で一石」ともじったものだそうで、歌詞の中の「ごとごと」というのも、それにかけているようです。だとしたら、この作詞家は相当なセンスがあることになりますが、この歌詞はオリジナルではなく、もともと子守唄にあったものであるとの指摘もあります。

さて、この一石橋は現存しています。外堀通りの日本橋川に架かる橋で、八重洲方面から日本橋本石町方面をつなぐ重要な役割を果たしています。橋の北側は、当時の幕府金座、現在の日本銀行があります。
歌の中では「いっこくばし」と歌われていますが、橋の表記は「いちこくはし」となっています。どちらが正しいということはなく、両方使われているようです。Img_5869

橋の南側に、「満よひ子の志るべ」と書かれた石標があり、「一石橋迷子しらせ石標」として東京都指定有形文化財となっています。Img_5868 Img_5866

有形文化財ゆえに、このように金網が張られていて見にくいのですが、保護すべき歴史資料なので仕方がないところでしょう。

Img_5862_2

日本橋は、江戸文化の中心として栄え、その面影を残す場所もあるのですが、日本橋川の上には首都高速が走り、一石橋の下流側は首都高速の入口になっており、風情も何もない現代の東京そのものであるのは残念です。
この橋の下流にある日本橋ともども、今一度、景観論争が巻き起こってもおかしくはないと言えるでしょう。

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2010年11月 2日 (火)

【レトロ】懐かしの手塚アニメ「海のトリトン」

「youtube」にはさまざまな動画がupされており、「エッ、こんなのまで」と思えるような懐かしい画像に出会えることがあります。今回は、懐かしい昭和の時代のアニメの話です。

アニメは我が国の文化と言ってもいいくらい、昔からテレビの発展とともに多くの作品が放映されてきました。現在でも昔のアニメが再放送されることも少なくないですし、CS放送には「アニマックス」といった専門チャンネルまであるくらいですから、当時、リアルタイムで見れなかった人も見る機会があるでしょう。
youtubeにupされている画像の多くは、こういった再放送のものが多いのではないかと思います。

さて、昭和の時代に数多くの作品を提供した漫画家といえば、手塚治虫でしょう。リアルタイムで読んだ漫画としては、「ブラックジャック」がもっとも印象に残っています。この作品掲載当時の少年チャンピオンには、「ドカベン」「がきデカ」「マカロニほうれん荘」などの人気作品が掲載されており、チャンピオンの黄金時代であったと思います。
ただし、「ブラックジャック」はのちにテレビアニメ化されますが、放送上の制約からか原作のリアリティが感じられず、あまりいい出来ではなかったように思えます。

手塚治虫のテレビアニメは、「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」が有名ですが、個人的に印象に残っているのは、「リボンの騎士」と「海のトリトン」です。

とりわけ「海のトリトン」は、その主題歌が頭にこびりついており、海を見るたびに自然に頭に浮かんできます。それも、エンディング曲のほうが。

オープニング曲の「GO!GO!トリトン」のほうは、高校野球の応援の際に演奏されることがあり、現在でも甲子園で聞くことがあります。この曲は、全国の高校のブラスバンド部の練習曲として選ばれることが多いそうです。

「海の底の昼下がり そっと耳をすませてごらん・・・」で始まるエンディング曲。番組のクレジットには、「作詞 伊勢正三 作曲 南高節(漢字!) 歌 須藤リカ・かぐや姫」とあります。

このアニメの初回放送は1972年(昭和47年)。かぐや姫が「神田川」を大ヒットさせたのが1973年ですから、この曲はメジャーになる前のかぐや姫の作品ということになります。
また、歌っている須藤リカは、のちにNTV「ウィークエンダー」のレポーターとして活躍したすどうかづみです。

エンディングでは、須藤リカが歌っているシーンが映し出され、わずかな時間ではありますがバックで演奏している3人も写りますが、まぎれもなくかぐや姫の3人です。
あの「すどうかづみ」がかぐや姫をバックに従えて歌っていた・・・。意外性もあり、貴重な映像と言えるのではないでしょうか。この画像はyoutubeで見ることができます。

「海のトリトン」の歌詞は、アニメ曲ということもあっておこちゃま向けですが、曲は南こうせつ作曲だけに、昭和のフォークソングのテイストを感じることができます。

この懐かしい曲と貴重な映像をご覧になりたい方は、youtubeで検索してみて下さい。

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