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2011年8月

2011年8月19日 (金)

祝・3万アクセス達成!

このブログを始めて1年11ヶ月。PCのアクセス数が3万に達しました。
昨年、開始から約1年で1万アクセスに達しましたが、満2年まで1ヶ月を残して3万アクセスを達成しました。1年目の倍以上のペースということになります。

更新を怠りがちにもかかわらず、たくさんの方にこのブログを見ていただき、ブログを始めてよかった、と感じております。

今後も、なるべくブランクを作らないよう努力していきたいと思いますので、よろしくお願いします。

さて、このブログで、GW中の城めぐりの記事を紹介しましたが、これを一部加筆・修正したものが、東京税理士会日本橋支部の会報に掲載されました!

Img_6151 Img_6150 ごく一部の人にしか配布されない会報ですが、穴埋めにはなったようです(笑)。

担当の方には、このブログの記事そのままでもOKと言われていますので、今後も機会があれば寄稿したいと思います。

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2011年8月18日 (木)

【東京】隅田川を歩く⑤ 隅田川大橋~永代橋

自宅を出て隅田川テラスを歩く場合、清洲橋から下流に向かうことが多いのですが、このあたりの隅田川沿いは、事業所のビルやマンションが立ち並んでいます。隅田川に面した側は、障害物がないので、さぞかし眺めがいいことでしょう。

Img_6136 隅田川大橋の手前にそびえるのが、リバーサイド読売ビルです。テナント兼マンションであるようで、向こうに見えるIBM箱崎ビルとともに、このあたりのランドマーク的建物です。

Img_6140 Img_6144隅田川大橋は、首都高と一般道の二層構造になっており、西側は中央区日本橋箱崎町、東側は江東区佐賀一丁目を結んでいます。一般道は、中央区側が水天宮通り、江東区側が葛西橋通りと呼ばれています。
この橋の建設は比較的新しく、1979年、首都高建設と同時に完成しました。

Img_6160 この橋の中間地点からは、東京スカイツリーがよく見えます。この日も、プロのカメラマンとおぼしき数人がカメラを構えていました。

上部を通るのが首都高速9号深川線ですが、この橋の中央区側は、6号向島線と合流する箱崎ジャンクションになっています。

Img_6156 この箱崎ジャンクションは、首都高の渋滞の名所であり、道路情報にもよく登場します。3方向からの路線が合流し、なおかつ上下線が分離し、PAもある非常に複雑な構造になっています。
なお、写真の右後方の建物は、かつてソフトバンク本社があったビルです。

Img_6154 この箱崎ジャンクションの真下にあるのが、東京シティエアターミナル(TCAT)です。9・11の翌年、テロ対策のため、ここでのチェックインはできなくなりましたが、成田空港行きのリムジンバスが頻繁に発着します。
オレンジ色のリムジンバスでおなじみの、東京空港交通の本社もここにあります。また、地下鉄半蔵門線水天宮前駅もここの地下にあり、半蔵門線は隅田川大橋のほぼ真下を通っています。

Img_6163 隅田川大橋の横には、IBM箱崎ビルがあります。

中央区側、IBMの前に移動します。このあたりは隅田川の眺めが非常にいい場所で、休憩所も設けられ、くつろぐ人の姿も多く見られます。

隅田川テラスは、IBMのそばで途切れます。ここには、日本橋川との合流地点があり、ここに架かる豊海橋を渡って移動することになります。

Img_6185 日本橋川との合流地点からは、永代橋がよく見えます。

Img_6165 Img_6179 永代橋は、中央区新川一丁目と江東区永代一丁目を結んでおり、道路は永代通りと呼ばれています。地下鉄東西線がこの橋の地下を通っています。

もともと永代橋は、1698年、現在よりも上流の場所に架けられ、徳川幕府が末永く代々続くようにと命名されたそうです(異説あり)。当時は、深川の渡しがあった場所でした。

現在の橋は、1926年に完成したもので、ドイツのライン川に架かる鉄道橋をモデルにしたアーチ橋です。
同じドイツの橋をモデルにした清洲橋を優雅な女橋、この永代橋をどっしりとした男橋というイメージで造られたようです。

夜にはライトアップされ、その姿も美しいのですが、大震災以降、自粛しているのは残念ですが、仕方ないところでしょう。

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2011年8月15日 (月)

【ミステリー】本格黄金時代の幕開け E・C・ベントリー「トレント最後の事件」

久しぶりにミステリーネタを書きます。大震災以降、ミステリーを自粛していた訳ではないのですが、ミステリーは平和な時代にこそ受けるものであるようなので。

ミステリーの世界には、“本格黄金時代”と呼ばれる時代がある。第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間のつかの間の平和な時代に、本格ものと呼ばれるミステリーが大流行した。本格ミステリーの名作とされる作品の多くが、この時代に発表されている。

ここで、ミステリーの誕生から本格黄金時代に至るまでの流れをおさらいしてみよう。

1841年、エドガー・アラン・ポーが「モルグ街の殺人」を発表したのが、推理小説の誕生とされている。ポーは、オーギュスト・デュパンという探偵を登場させ、探偵が事件を推理するという新しいジャンルを誕生させた。
ただ、デュパンが登場する作品は3作しかなく、ポーの他の作品も、ミステリーに分類されるのは2作のみで、しかもすべて短編であった。

その後、1866年になって、フランスのエミール・ガボリオが「ルルージュ事件」でルコック探偵を登場させたのが、世界最初の長編推理小説である。
次いで、1968年、ウィルキー・コリンズが「月長石」を発表し、1978年に世界最初の女性推理作家、アンナ・キャサリン・グリーンが「リーヴェンワース事件」を発表する。

この時代には、まだ推理小説というジャンルが定着していた訳ではなく、「クリスマス・カロル」で有名なチャールズ・ディケンズや、ロシアの文豪、アントン・チェーホフなど、推理作家でない人が書いたミステリーも多かった。

これら、ミステリーの黎明期から、新たな探偵小説の時代を確立したのが、サー・アーサー・コナン・ドイルである。
1887年、「緋色の研究」で、シャーロック・ホームズを登場させ、ホームズ時代と呼ばれる時代に突入し、さまざまな作家が名探偵を登場させる。

G・K・チェスタトンのブラウン神父、オースティン・フリーマンのソーンダイク博士、アーサー・モリスンのマーティン・ヒューイットなど、多くの名探偵が創作される。この時代の特徴としては、超人的な探偵が事件を完璧に解決する作品が多く、また、短編が主流であり、シリーズ化されたものが多かった。

このホームズ時代から、新しい本格黄金時代の幕開けを告げる記念碑的作品となったのが、1913年、E・C・ベントリーの「トレント最後の事件」である。

Img_6149 Trent's Last Cace by Edmund.Clerihew.Bentley,1913

この作品が、本格黄金時代の幕開けとなったというのは、ミステリー界の定説で、エラリー・クイーンも、「開拓者たちの密林を抜け出して、現代の、解放された大通りに足を踏み入れた」と表現している。我が国でも、江戸川乱歩が同様の解釈をしたことで、定着している。

この作品に登場する探偵はフィリップ・トレントであるが、ホームズ時代の探偵が、ジャック・フットレルの「思考機械(シンキングマシン)」に代表されるように、あたかもコンピューターのような超人的な人物であるのに対し、きわめて人間的である。
ベントリー自身が、「探偵が、血の通った人間として認められるような推理小説を書くことも不可能ではあるまい、と考えたのだ」と述べているように、この作品では、トレントは、容疑者の女性に恋愛感情を抱いてしまう。これは、ホームズ時代の探偵には考えられなかったことである。

また、ホームズ時代は、短編が主流であったこともあり、事件解決へ一直線、みたいなところがあったが、この作品は、長編でもあり、心理描写にも多くのページが割かれている。

さらに、トレントは、必ずしも名探偵という訳ではなく、○○が△△することによって事件は解決する。この結末の意外性もまた、ホームズ時代にはありえなかったことである。

この作品には、ブラウン神父の産みの親、G・K・チェスタトンに捧ぐ、とあり、ベントリーとチェスタトンは友人であったようである。チェスタトンは、この作品を最上のものとして評価している。

このトレントは、その後に登場する個性的な探偵たちのモデルになったと言われている。もっとも近いのは、アントニイ・バークリーが創作したロジャー・シェリンガムか?

タイトルに「最後の事件」とあるように、ベントリーはこの作品の後は、トレントを登場させない予定であったが、要望もあって、1936年になって、合作による「トレント自身の事件」を発表している(戦後の邦訳はなし)。また、1938年に、短編集「トレント乗り出す」も発表しているが、これは「最後の事件」以前の活躍を描いたものである。
この「トレント乗り出す」は国書刊行会から刊行されており、収録作「ほんもののタバード(陣羽織)」はハヤカワポケットミステリー「黄金の十二」に、「絶妙のショット(好打)」は創元推理文庫「世界短編傑作集2」にも収録されており、高い評価を受けている。

ベントリー単独による長編は、「トレント最後の事件」のみであり、短編集も「トレント乗り出す」しかない。その唯一の長編によって、歴史的ミステリー作家として高い評価を受けているベントリー。ミステリーファンなら、必読の一冊である。

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2011年8月 6日 (土)

【東京】隅田川を歩く④ 新大橋~清洲橋

真夏には、川沿いというのは、一見、涼しげで、風も抜けるので、しのぎやすそうですが、直射日光の下は、さすがに暑い!

隅田川テラスには、散歩やジョギングされる方の姿が多く見られますが、昼間は避けて、昼下がりから夜にかけての時間にシフトする人が多いようです。

さて、前回の両国橋から下流へと向かいます。ここは東側、西側ともに隅田川テラスを歩くことができます。東側を通っていた首都高速6号向島線が、ここで隅田川を渡って西側へと進路変更します。

Img_6078 そして、首都高が対岸に渡る所は、竪川(たてかわ)との合流地点になっており、隅田川テラスは、一旦ここで途切れます。

Img_6080 ここには、竪川水門があり、首都高速6号向島線と竪川の上を走る7号小松川線と合流します。一旦、一般道に出て、竪川に架かる一之橋を渡ります。この川を境に、江東区に入ります。

Img_6088 隅田川テラスに戻ると、見えてくるのが新大橋です。

Img_6128 この新大橋は、中央区浜町2丁目と江東区新大橋1丁目を結ぶ橋で、この通りも新大橋通りと呼ばれています。
「新大橋」という名前から、新しい橋のように思えますが、最初に架けられたのは1693年と古く、両国橋が「大橋」と呼ばれていたことから、それに続く橋として、このように命名されたものです。江戸の古地図にも、新大橋の名を見ることができます。

Img_6125 橋の途中には、当時の新大橋の様子を描いた絵があります。江戸の中心であった日本橋と深川を結ぶ、重要な橋であり、深川の発展に大きく貢献した橋でありました。

当時の橋は、200mほど下流にあったそうで、1912年に現在の位置に移転しました。現在の橋は、1977年(昭和52年)に架け替えられたもので、旧橋は明治村に保存されています。

この橋から、東岸を下流に歩いた所に、芭蕉記念館があります。

Img_6130松尾芭蕉が、芭蕉庵を構えていた、ゆかりの地になります。この日は、すでに閉館しており、入ることはできませんでしたが、芭蕉庵の様子を再現したものを見ることができます。

隅田川テラスへ戻ります。ここから少し下った所に、小名木川との合流地点がありますが、隅田川テラスはこの川にも続いており、この川に架かる萬年橋付近から見る清洲橋が最も美しいという表示があります。

Img_6094 萬年橋を渡って、隅田川テラスに戻ると、清洲橋はすぐそこです。

Img_6121 清洲橋は、中央区日本橋中洲と江東区清澄1丁目を結ぶ橋で、ここを通る通りも清洲橋通りと呼ばれています。

関東大震災の復興事業として1928年(昭和3年)に、ドイツのケルンの吊り橋を模して架けられたものです。

Img_6103 江戸の頃、ここには、中洲の渡しがあったそうですが、中央区側は、「日本橋中州」の地名の通り、当時は隅田川の中洲でありました。現在は埋め立てられて日本橋浜町と地続きになっていますが、当時は中洲の渡しで月見などを楽しむ人々がいたことが書物に残されています。

実は、この橋、自宅マンションの目の前にあります。数年前、この橋は重要文化財に指定されましたが、この橋の西詰の狭い場所に黒塗りの車が停まって、「なんだろう?」といぶかしげに見ていたところ、重要文化財指定のプレートが貼られたのを見て納得しました。

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