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2010年9月

2010年9月26日 (日)

【レトロ】大横綱・北の湖とそのライバルたち

横綱・白鵬が全勝優勝し、62連勝を飾り、来場所にも双葉山の69連勝を破る可能性が高くなってきました。この無敵の横綱にケチを付けるつもりは毛頭ありませんし、外国人力士が偉大な双葉山の記録を塗り替えるのは好ましくない、という気もありません。

プロ野球の世界では、王のシーズン55本塁打を外国人選手が破ろうとした際、敬遠攻めしたことがありましたが、こうした「島国根性」がプロ野球の人気を衰退させ、選手のメジャー流出の一因となったと思っています。

スポーツの世界では、外国人であろうとも、実力が伴えば評価されるのが当然であり、そのスポーツの国際化につながるとしたら好ましいことだと思います。が、相撲の場合は、明らかに外国人力士の台頭が人気衰退の原因になってしまったことには、誰も異論はないでしょう。

日本人力士のふがいなさが、人気衰退の大きな原因でしょうが、それ以外に、外国人力士の力まかせのレスリング的相撲に違和感を感じる人が多いということもあるのではないかと思います。また、元横綱・朝青龍に代表されるように、日本の相撲独特の伝統やしきたりを理解できない外国人力士が多く、それを教育できない師匠の存在も問題視されています。
外国人力士の台頭によって、相撲そのものだけでなく、相撲界全体が変質してしまった感があります。相撲は、日本固有の文化であり、他の格闘技とは一線を画す必要があると思います。

個人的にも、最近は、大相撲を興味を持って見ることはなくなりました。ここでは、自分自身がもっとも相撲をよく見ていた、昭和40年代後半から50年代の話をしたいと思います。

私自身は、相撲は小さい頃からよく見ており、大鵬の時代もかすかに記憶があります。早世した玉の海との千秋楽二番が、一番古い記憶でしょうか。

昭和40年代後半から50年代というのは、ズバリ北の湖の時代でありました。
当時、嫌いなものの代名詞として、「江川、ピーマン、北の湖」という言葉がありましたが、野球への興味が江川とともにあったのと同様、この北の湖の存在が相撲への興味をそそられることになりました。(ちなみにピーマンは嫌いではありません)

北の湖のライバルとして存在したのが、輪島、貴ノ花(先代=若貴兄弟の父)、若乃花(二代目=現間垣親方)、魁傑(現放駒理事長)などですが、当時、輪島、魁傑は花籠部屋、貴ノ花、若乃花は二子山部屋の所属で、この両部屋は下町ではなく阿佐ヶ谷にあったため、「阿佐ヶ谷勢」と呼ばれ、北の湖に対抗していました。また、北の湖に何度か土をつけた金剛(現二所ノ関親方)、麒麟児(現北陣親方)も二所ノ関部屋所属で、花籠、二子山とともに二所一門の力士による「北の湖包囲網」ができていました。

とりわけ先輩横綱の輪島は、再三北の湖の前に立ちふさがりました。「黄金の左」と呼ばれた輪島と、左四つ・右上手を取っての攻めを得意とする北の湖の対戦は、必ず左四つになりました。北の湖が台頭する時期も横綱昇進当初も、右上手投げを打った所を輪島に左下手投げを打ち返されるというシーンがたびたび見られました。
北の湖が横綱昇進から2年以上も全勝優勝できなかったのも、輪島の存在が大きかったと言えるでしょう。

輪湖対決で印象に残っているのは、昭和51年初場所千秋楽の優勝を賭けた一番で、北の湖は安易に上手投げにいかず、じっくりと有利な態勢に持っていき、頭を付けます。この時のNHKの解説者が、「おっ、頭付けましたよ」と言ったのが耳に残っています。
ここまで分が悪かった輪島に対し、プライドを捨てて頭を付けにいった北の湖が印象的でした。両者の生涯対戦成績は、北の湖の21勝23敗とほぼ五分に持ち込んでいます。

もう一人、この時代で忘れられないのは貴ノ花です。軽量でありながら強靭な足腰で驚異的な粘りを発揮しました。北の富士との「かばい手」は有名ですが、これも貴ノ花の足腰のなせる技だったと言えるでしょう。
この貴ノ花が初優勝した昭和50年春場所は、おそらく昭和の相撲ファンには忘れられないでしょう。この場所は、輪島が休場で、1敗の貴ノ花と2敗の北の湖が千秋楽結びの一番で対戦、ここで北の湖が勝ち、優勝決定戦にもつれ込みます。決定戦では、貴ノ花が低い体勢から体の伸びあがった北の湖を寄り切り、ついに初優勝を達成します。
場内には座布団が舞い、土俵上が座布団で覆いつくされたのを覚えています。「土俵の鬼」と言われた実兄で師匠の二子山親方が涙するシーンもありました。

この時代の輪島、若乃花などが優勝同点(決定戦負け)が多いのも、北の湖が君臨していたからで、この二人は、北の湖がいなければもっと優勝していたはずです。ただ、北の湖がいなかったら貴ノ花は横綱になれたか、というのは意見が分かれる所でしょう。

北の湖の強さを示すエピソードとして、三重ノ海(現武蔵川親方=前理事長)は、立ち合いに「猫だまし」と呼ばれる、目の前で手を叩くという手に出たことがあります。しかしながら、北の湖は全く動じず完勝しています。

北の湖が嫌われた理由としては、強すぎたというだけでなく、いばったような歩き方、土俵で倒した相手が起き上がるのに手を貸さない、というものがありました。しかしながら、当時から性格は非常に良く、人からは好感を持たれるタイプだと言われていました。そのことは、引退後、理事長にまで昇りつめたことで証明されています。(一方の輪島は・・・)

この時代の相撲が面白かった最大の理由は、それぞれが自分の型を持っており、それにこだわりを持っていたこと。そして、各力士が相手の攻めを予想して駆け引きが見られたこと。さらに、下半身が強靭で土俵際で残し、大相撲になることが多かったことでしょう。

その後に現れた千代の富士や貴乃花(二代目)も、こうした資質を持っていましたが、千代の富士には好敵手が少なく、貴乃花は最大のライバルが外国人力士であったことが、熱い相撲が見られなくなった原因であると考えています。

とにかく今のレスリングのような相撲は面白くない。巨体で力まかせにねじふせるような一番ばかり見せつけられると、見る気がしません。昭和の良き時代の相撲を知る人の多くは、そう感じているのではないでしょうか。

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2010年9月21日 (火)

ありがとう ブログ1周年&1万アクセス突破

昨年9月20日に開始した当ブログは、昨日、1周年を迎え、そして1周年から遅れること1日、ついにPCのアクセス数が1万を突破しました!

1周年の日までに1万に達するかどうか、やきもきしていましたが、1日遅れながら達成することができました。なお、1万アクセスは、本日16時頃に達したようです。キリ番を狙っていた貧乏人のT君(いや、今日は貧乏人ではないか)、残念でした。

他に、携帯のアクセス数も6300に達しており、これだけ多くの方々に閲覧していただけるブログになりました。

昨年、ブログを始めた当初は、「誰も見てくれなかったらどうしよう」と思っていましたが、これほど早く1万アクセスに到達するとは思っていませんでした。

これも、閲覧してくださる方々のおかげです。ありがとうございました。
各カテゴリーごとに、見ていただける方が多くいらっしゃるのも、うれしいことです。

今後も、より一層、充実したブログにしていきたいと思いますので、今後もよろしくお願いいたします。

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2010年9月20日 (月)

【ミステリー】推理小説創成期の作家たち

2008年になって、エミール・ガボリオの「ルルージュ事件」が、国書刊行会から刊行された。この作品は、終戦直後に邦訳されてからは新訳が出ず、きわめて入手困難な状況であり、常に新訳の刊行がのぞまれていたのだが、やっと日の目を見ることになった。

なぜ、「ルルージュ事件」がミステリーファンの間で熱望されていたかというと、この作品が、世界最初の長編推理小説とされているからである。

探偵小説の祖は、エドガー・アラン・ポーであることは異論がない。ただ、ポーの作品はすべて短編であった。ポーの死後、なかなか追従者が現れなかったが、1866年になって、フランスのガボリオが「ルルージュ事件」を発表し、1868年、イギリスでもウィルキー・コリンズが「月長石」を発表する。
このように、推理小説の歴史は形成されるのであるが、1887年、サー・アーサー・コナン・ドイルが「緋色の研究」でシャーロック・ホームズを登場させるまでの間の作家たちは、その歴史の中に埋もれてしまったようだ。

この、推理小説創成期の作品としては、「月長石」が創元推理文庫から刊行されている以外は、新刊で入手できるものは少ない。ガボリオにしても、「ルコック探偵」が1979年に旺文社文庫から抄訳が刊行されて以来、新刊は出ておらず、完訳は1964年の東都書房版までさかのぼらなければならない。

Img_4926 Monsieur Lecooq by Emile Gaboriau,1869

東都書房版は、ハードカバーのため、痛みが少なく、古書での入手は、旺文社文庫版よりも簡単かも知れない。ただ、完訳版は、長い。前述の「月長石」もそうだが、この時代の長編は、本当に長編であって、読み進めるには覚悟が必要である。途中で眠くなってしまうことも多いであろう。

単に長いだけでなく、進行のテンポが遅く、ロマン的、文学的であるのも、この時代の特徴である。このロマン的なものを織り込んだ推理小説を、「ムッシュ・ルコック的」と江戸川乱歩は評している。

この時代には、他に、「クリスマス・カロル」などで有名な、チャールズ・ディケンズが「荒諒館」でバケット警部を登場させているが、この作品もちくま文庫で4巻にわたる長編である。
フォルチュネ・デュ・ボアコベは、フランスではガボリオと並ぶ推理小説創成期の作家であり、「鉄仮面」が有名である。これも上下2巻で刊行されている。

また、アントン・チェーホフは、トルストイやドストエフスキーと並ぶロシアの文豪であるが、「猟場の悲劇」「安全マッチ(短編)」というミステリーも発表している。

この時代にもう一人、挙げなければならない作家がいる。アンナ・キャサリン・グリーンである。
アメリカ最初の推理作家にして、世界最初の女性推理作家であるとされているが、本国でもすっかり忘れ去られた存在であるようだ。それでも、エラリー・クイーンは、ミステリーの歴史的に重要な作品として、「リーヴェンワース事件」を挙げている。

Img_4927 The Leavenworth Case by Anna Kathrine Green,1878

この「リーヴェンワース事件」の他には、邦訳された長編はないようで、この作品にしても、戦後の邦訳は、この東都書房版のみである。それゆえに、入手困難な作品である。絶版作品の復刻をのぞむサイトでも、歴史的意義からというコメントが多いようだ。

事件の記述の羅列といった印象があり、退屈な面は否めない。シェークスピアなどの一節が織り込まれており、文学的色彩を出そうとしているのも特徴である。

なお、グリーンの短編「医師とその妻と時計」は、江戸川乱歩編「世界短編傑作集1」(創元推理文庫)に収録されている。

このように、ポーとドイルの間に埋もれた感がある、推理小説創成期の作家であるが、新訳が出ないのもわかるような気がする。絶版になっているこれらの作品を数千円も出して読む意味は薄いと言わざるを得ない。ミステリーのコアなマニアの方か、コレクターアイテムとしてのみお薦めしたい作品である。

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2010年9月15日 (水)

【レトロ】80年代の巨人のエースを争った江川卓と西本聖②

(前回からの続き)

1979年、金子コミッショナーの強い要望(私に言わせれば横暴)により、小林投手とのトレードで江川は巨人入りを果たしますが、開幕から2ヶ月間、一軍登録の自粛を余儀なくされます。
この間、江川はイースタンで登板しますが、この時のおもしろい映像を見たことがあります。江川はある打者の打球を凡フライと思い、マウンドを降りかけていたところ、その打球はグングン伸びてフェンスを越えてしまいます。その打者は、新人時代の落合(現中日監督)でした。

この年、江川は9勝10敗で終えます。一方の西本は8勝4敗、初めて規定投球回数に達します。西本が江川に激しいライバル意識を燃やした理由は、自分が苦労して手に入れつつあったローテーションの座を、江川に簡単に奪われてしまうことだったとのことです。
また、同期の定岡は簡単に追い抜けたので、これからエースを争うのは江川であると意識していたようです。

この当時、江川は、なんで西本はあれほどまでに自分を意識するのか、という思いだったようです。いわば、西本が一方的にライバル視しており、江川はそれほどの意識はなかったと回顧しています。

翌1980年は、二人は先発の柱となり、江川は16勝12敗で最多勝、西本は14勝14敗でした。

そして、長嶋監督が去り、王が現役引退、藤田監督が就任し原(現巨人監督)が加入した1981年、巨人は快進撃で4年ぶりにリーグ優勝を果たします。江川は20勝6敗、防御率2.28で投手2冠、他に勝率、奪三振、完封もリーグトップと現役最高の成績をあげ、セ・リーグMVPも獲得します。
一方の西本も、18勝12敗、防御率2.58と好成績を残し、日本シリーズでは2勝をあげ最優秀選手に選ばれます。しかしながら、シーズン中の成績は、いずれも江川には及びませんでした。

そして、迎えたオフ、両者の関係を決定的にする事件が起こります。投手最高の栄誉とされる沢村賞(当時はセ・リーグのみが対象)は、誰もが江川で決まりと思い、記者会見の会場も用意されていたと言います。そこへ、「沢村賞は西本」の知らせが入り、記者の質問に江川は珍しく声を荒げたそうです。

当時の沢村賞は、記者投票で決定されており、入団のいきさつから江川に良い印象を持っていなかった記者の票が西本に流れたことは明らかでした。西本の受賞理由として、「投球回数は江川より多い」「巨人が独走態勢を築いた序盤は西本の方が上回っていた」という取って付けたようなものから、「ピッチングフォームが沢村栄治に似ている」という冗談のようなものまでありました。(江本孟紀は著書の中で「沢村賞が物真似大賞なら西本は毎年受賞するかも」と皮肉っている)
なお、この影響からか、翌年以降は、沢村賞の選考はプロ野球OBによるものに変更されています。

江川は、当時を振り返って、「選考理由に人格も入るんだ」と思ったそうですが、プロ入りの際の最大の目標にしていた沢村賞を西本に奪われたことで、江川にも西本に対するライバル心が生まれます。

もうひとつ、江川は忘れられない出来事として、1983年の西武との日本シリーズを挙げています。
第1戦に先発した江川は序盤に崩れ敗戦。第4戦は同点で降板しますが、この試合で肉離れを起こしてしまいます。
一方の西本は、第2戦で完封勝ち、第5戦も完投勝ちし、巨人が3勝2敗と王手を掛けて第6戦を迎えます。

第6戦、巨人は、9回表に中畑の三塁打で3-2と逆転。いよいよ日本一まであと1回、ブルペンでは江川と西本がウォーミングアップをしていました。
この時、江川は、当然自分が指名されるものと思っていました。江川によると、「この時初めて投手生命を掛けてもいい」と思っていたそうです。が、藤田監督が指名したのは西本でした。

不幸にも、西本は同点に追いつかれ、延長10回裏に江川が登板しますが、金森にサヨナラ打を浴びてしまいます。
江川は、もし9回裏に自分が登板していれば、押さえる自信があったと回顧しています。一旦気が抜けた状態の10回裏は、打たれたのは必然であったそうです。

結果的に、第7戦では西本が先発し逆転負けを喫して、西武に日本一をさらわれてしまいますが、江川にとっては、第6戦の9回裏に、自分ではなく西本が選ばれたことだけが印象に残っている、と語っています。

「ライバル伝説・・・光と影」の番組内では、両者が再会し、江川は沢村賞と1983年の日本シリーズの一件を話題にしましたが、西本が江川に対して質問したのは、「自分のことをどう思ってくれていたのか」でした。
江川は即座に、「唯一のライバル。西本がいなかったら、俺はもっと手を抜いていた」と答えます。この言葉を聞いた西本がうれし涙を流したのは印象的でした。

江川は、西本が投げる試合では、「負けろ、打たれろ」と心の中で叫んでいたと言います。それは西本も同じでした。(私は「二人とも負けろ」でしたが・・・スミマセン)
同じチームにいて、そう思えるのは本当のライバルだからこそで、それは西本しかいなかったと江川は言います。

現役中は、周囲が犬猿の仲のように書きたてていたため、二人は仲が悪いと思っている人が多いようですが、1つ年下の西本が「卓ちゃん」と呼んでいるように、実際は仲がいいことがわかります。

天才と雑草に例えられた二人。この二人が支えた1980年代は、プロ野球の黄金時代であったと個人的に思っています。ナベツネによると、巨人戦の視聴率が最も高かったのは1983年だということです。

最後に、西本の引退試合を企画したのは、すでにタレントになっていた同期の定岡正二で、桑田、山本昌、立浪、山崎武らが参加し、最後に長嶋監督が打席に立ったことを付け加えておきます。

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2010年9月14日 (火)

【レトロ】80年代の巨人のエースを争った江川卓と西本聖①

ブログを開始して約1年。自分が興味あるいくつかのカテゴリーのもとに書いてきましたが、どうにもネタ切れになって、更新を怠ること甚だしい(汗)。

そこで、新カテゴリーを設けて、今書きたいことを書く、それもアリなのでは、と思いつきました。先日、理髪店で、いわゆる「床屋のよもやま話」をしているうちに、昔話が多いですね的な話になりました。そういえば、私も死期が近づいてきたのか(冗談)、昔のことを思い出すことが多くなり、youtubeでかつての画像を検索することが多くなったことから、新カテゴリーとして、【レトロ】を追加することにします。
主として、昭和の話題を中心としますが、時折、はみ出すことがあるかも知れませんが、ご了承ください。これで5回くらいはネタができたか(苦笑)。

昨年7月、TBSで「ライバル伝説・・・光と影」というドキュメント番組が放映されました。ここで取り上げられたのが、1980年代、巨人のエースを争った江川卓と西本聖の二人の投手でした。

あらかじめ断っておきますが、私は自他共に認めるアンチ巨人(この言葉もあまり聞かなくなったが)ですが、その最大の原因を作ったのが、他ならぬ江川であります。
それ以前は、長嶋の引退試合も、王の世界記録もリアルタイムで見ており、特に巨人が嫌いという訳ではありませんでした。ただ、江川の存在がなければ、これほどまでにプロ野球に興味を持つことはなかったかも知れません。

作新学院時代の江川の記憶は、当時小学生でしたが、現在も鮮明です。なにしろ、打者は投球がミットに入ってから振っているのだから、当たるわけがない。センバツの準々決勝では、私の地元・今治西と対戦し、なんと1安打20奪三振(現在もセンバツ記録)。とにかく打てる気がしなかったのを覚えています。

続く準決勝では、広島商が待球策と足でかき回す攻撃で江川は逆転負けを喫します。ダブルスチールで捕手の三塁送球が悪送球となったとき、思わず大声をあげた記憶があります。
ちなみに、この時の小倉捕手は、その後、亀岡と姓を変え、自民党衆議院議員となりました(昨年の総選挙で落選)。
広島商は、決勝で横浜(初出場、若き渡辺監督が率いていた)に敗れますが、夏に全国制覇を成し遂げます。広島商の佃投手、金光、楠原選手は法大で江川のチームメイトになります。また、川本選手は後に広島商の監督になり、昭和最後の甲子園で優勝し、NHK高校野球の解説を務めました。
ただ、これら主力選手は、プロには進まず、後にプロで大成したのは、地味だった達川捕手でした。
佃氏と川本氏は若くして亡くなられたそうです。また、横浜の永川投手もヤクルトに入団するも芽がです、引退後35歳の若さで急逝しています。

夏の大会では、初戦で江川と対戦した柳川商は、普通の構えでは打てないと判断し、バントの構えから当てにいく作戦をとります。現在ではバスターと呼ばれる戦法ですが、当時は奇策でした。柳川商は、いい所まで追い詰めたものの、延長戦で作新がサヨナラ勝ち。
そして、2回戦では銚子商戦で0-0のまま延長戦となり、江川は押し出しサヨナラで敗退します。作新は、完全な江川のワンマンチームで、貧打だったことがわかります。

その後登場した、桑田真澄や松坂大輔は、記録の上では江川の上をいきますが、強力打線の力を借りた部分もあり、高校時代の実力では、断然江川のほうが上だったと断言できます。

江川と甲子園で対戦した選手のうち、プロで大成したのは、前述の達川だけです。一説によると、江川のあまりのすごさにショックを受け、自信喪失したのが原因ではないかとのことです。
その達川は、江川が一番すごかったのは高校時代だといい、これと同意見も多く聞かれます。江川が高卒後すぐにプロ入りしていたら、300勝以上していたかも知れません。

一方の西本。実は、私は松山商時代の西本を直に何度か見ています。地元では1年生の時から注目されていました。というのも、西本の兄は、松山商のエースとして甲子園で準優勝し、ドラフト1位で広島に入団した、地元では有名人であったからです。

余談ですが、あの衣笠の連続試合出場は、西本兄に代わって出場(西本兄は野手に転向していた)した試合からスタートしています。そして、連続出場が最大のピンチとなったのは、広島球場で西本弟から死球を受けた時でした。この試合は、土曜日でNHKが放映しており、大乱闘になったのを覚えています。衣笠は、翌日も強行出場し、江川の球を思い切り三振して連続出場を継続しています。(このエピソードは「週刊ベースボール」より)
なお、西本兄は、現在、松山市内で「ホームラン」という料理店を経営しています。

西本は、2年生の時、県大会の準々決勝で南宇和の藤田学投手(ドラフト1位で南海に入団し新人王)と投げ合い、敗退します。この試合は、松山球場で見ています。
3年生の夏、今年こそは甲子園、と言われながら、またも準々決勝で帝京第五に1-0で敗れ、甲子園の夢はついえます。この試合は、松山商が再三のチャンスを生かせず、監督はその後解任されています。

甲子園に出場できなかった西本は、全国的には無名で、ドラフトで指名されることはありませんでした。この年の、巨人のドラフト1位は鹿児島実の定岡で、プロ入り後の西本の最初のライバルとなります。

その西本は、ドラフト外で巨人に入団します。地元紙では見出し付きで報じられたと記憶していますが、おそらく地元以外の人は、誰も知らないでしょう。

西本は、プロ入り後、その努力の甲斐あって、1軍ローテーション入りを果たします。そこへ、あの大騒動の末、江川が入団します。

入団までの経緯がこれほどまでに違う江川と西本。当初は、西本が勝手にライバル心をむき出しにし、江川はやり過ごしていたようですが、ある出来事を境に、二人は真のライバルとして意識しあうようになります。

(続く)

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2010年9月11日 (土)

【駅弁】小田原駅・東華軒 新作駅弁2種

超久々に駅弁の現地買いをしました。と言っても関東地区ですが・・・。

小田原・熱海駅などで駅弁を販売する東華軒の新作駅弁2種です。「駅弁の小窓」から情報をいただき、さっそく行ってきました。

Img_4912 小田原駅には、JR東日本エリア、小田急との連絡用コンコース、JR東海エリアの東海道新幹線改札内と、数ヶ所で駅弁販売がありますが、あえて駅の外に出て、東口駅前の直営売店に。「新発売」の表示があります。

東華軒は、超ロングセラーの「小鯵押寿司」と「鯛めし」を販売する老舗で、最近は金目鯛を使った駅弁が人気です。海産物を使った駅弁が得意なので、新作に期待がかかります。

Img_4914 駅弁を購入後、小田急のロマンスカーMSE「メトロはこね」でいただくことにします。昨年、この列車については紹介しましたが、地下鉄千代田線に乗り入れ北千住まで運転されます。

Img_4917 Img_4921 8/21から発売の「漁師丼」840円。「相模小田原漁師の贅沢」のキャッチコピーが入っています。
鯵の干物の白味噌和え、金目鯛の醤油和え、桜海老の素揚げと相模湾の名産にしてこの駅弁屋さんの象徴ともいうべき素材が使われています。下のご飯は酢飯かと思いましたが、普通の白飯です。
まだまだ暑い日が続きますので、いたまないように工夫が大変でしょう。金目鯛は酢が効かせてあります。

それにしても、MSEのテーブルは小さい。二段重ねの弁当などははみ出してしまいそうです。この海産物の駅弁は、内陸を通る小田急より海沿いを通る東海道本線の方がふさわしいかも。

Img_4922 Img_4925 もう1種、9/1新発売の「秋のおべんとう」900円です。

栗としめじの炊き込みご飯に焼き秋刀魚、鮭フライ、茄子とさつま芋の天ぷらなどが添えられています。里芋の煮物を松茸の形に模したものは、他でもよく見られるようになりました。みなさん騙されないように(笑)。

秋を表現した純和風の弁当です。欲を言えば1品は肉系のおかずが欲しかったところですが、この駅弁屋さんは海産物が売りなので、これで十分でしょう。

神奈川県は、横浜・川崎などの崎陽軒、大船・鎌倉などの大船軒、小田原・熱海などの東華軒と元気な駅弁屋さんが3社あり、それぞれ定番の駅弁を持ちながら、新作を次々と発売しています。
この地区の電車は、通勤客が圧倒的に多く、小田急ロマンスカーでさえ通勤用「ホームウェイ」として運転されるほどです。それでいて駅弁が売れるのは、自宅や会社に持ち帰って食べる人が多いということでしょう。

地元の人に愛される駅弁は、根強い人気があって、ロングセラーとなることが多いようです。その意味で、この地区の駅弁は、今後も生き残っていけることは間違いありません。

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2010年9月 8日 (水)

【ミステリー】クイズ・隅田川散歩の事件簿⑥~遺言

隅田川散歩の事件簿⑥~遺言

9月に入ってもうだるような暑さが続くある日、東京・文京区内で資産家の婦人の死体が発見された。

被害者は、この一戸建て住宅に一人で住む、内田保子(64)。夫と2年前に死別した未亡人で、都内に賃貸物件を数件所有していた。
発見したのは、被害者の甥で弁護士の三田村祐一(41)。被害者の顧問弁護士を務め、資産管理等を行っていた。

通報を受けた荒川満保警部は、すぐさま探偵・隅田川散歩に連絡をとり、ともども現場に急行した。

直射日光が当たる玄関を入ると、すでに鑑識が捜査を開始していた。被害者は、リビングのソファに首を絞められて横たわっており、見た目にも明らかに他殺であった。現場のリビングはエアコンがガンガンにきいている。

発見者の三田村弁護士に、さっそく事情を聞くことにした。
「伯母は今日、新しい公正証書遺言を作成するため、公証人役場に行くことになっていました。私も証人として立ち会うことになっていたので、午前10時に迎えに来たところ、インターホンを押しても返事がない。鍵が開いていたので、リビングに入ったところ、このようなことに・・・。ええ、エアコンはついたままでした。」

三田村によると、被害者には息子の健二(43)と娘の洋子(39)がおり、それぞれ都内に別居している。被害者は、家政婦の大友佳代(51)に長年身の回りの世話をしてもらっているが、たまたま2日前から実家に帰っていて不在だった。

息子の健二が妻を伴って駆けつけた。その取り乱す姿は、散歩には演技には見えなかった。
落ち着くのを見計らって、荒川警部は健二に質問すると、次のように答えた。
「母は、父を亡くしてから、急に不安になってきたようで、財産のことで祐一君とたびたび話していたようです。大友さんがいるとは言っても、いつもいる訳ではないし、夜などは一人でいるのが淋しいようなので、近々同居しようかと妻と話していたところです。同居したほうが相続税も有利になるらしいので。」

続いて、娘の洋子が夫とともに現れた。(結婚して姓は変わっているが、混乱を避けるためにここでは書かない)洋子の供述は、次のとおり。
「最近、母は時々夜に電話してきて、『健二が私の財産をあてにしているようだ』と話していました。祐一さんもその点が気になって仕方がないようで、遺言書の書き換えを早くしなければと言っていました。私は、夫が銀行員で十分な生活ができているので、母の財産はあてにしていません。」

実家に帰っていた佳代は、戻ってくるのが夕方になるということなので、荒川警部と散歩は、いったん引き上げることにした。

夕方になって、佳代が出頭してきて、以下のように供述した。
「私は、ご主人さまが生きていらっしゃる頃から、家政婦として働いてきました。かれこれ20年になります。奥さまは、ご主人さまが亡くなられてからは、淋しがるようになって、できる限り長くいてほしいとおっしゃることが多くなりました。その分、手当もはずんでくれるのですが。最近、健二さんがよくお見えになっていましたが、何を話していたのかはわかりません。三田村先生と話す時もそうですが、別室の書斎で話されるので、全く声は聞こえませんでした。」

その後の捜査で、事件当日、被害者は遺言書を書き換える予定であったが、書き換える前の遺言書は、三田村弁護士が保管していた。
それによると、被害者の財産は、5割が健二へ、3割が洋子へ、佳代と三田村弁護士に1割ずつ渡されることになっていた。

なお、公正証書遺言の証人として、もう一人、不動産会社社長が選ばれていたが、この人は事件とは無関係であることが判明した。

荒川警部はメモを見ながら言った。
「どうやら犯人は、被害者が自分に不利になるように遺言が書き換えられると思い、書き換えられる前に殺した、と考えるのが妥当のようだな。」

散歩は、うなずきながら答えた。
「まあ、そんなところだろうな。断定はできないが、その説に従うと、この人物がもっとも怪しいということになるな。この人物を中心に洗ってみるべきだろうな。」

(問題)散歩がいう、もっとも怪しい人物とは誰か。またその理由とは。

隅田川散歩の事件簿④~解決編

荒川警部はこう指摘した。

「君は新幹線の2人がけの窓際の席に座ったのだな。そこから通過する三島駅のホームが見えたということは、君はグリーン車に乗っていたことになる。なぜなら、新幹線の普通車は山側が2人がけ、海側が3人がけで、三島駅は島式ホームの外側に通過線があるから、上りからだと海側になり、普通車に乗っていたら2人がけの席からはホームは見えないはずだ。
そして、名古屋から乗ってきたという人物は、N700系の喫煙ルームがある車両だと言っているから、10号車ということになる。その人物は、東海道新幹線をよく利用し、知りつくしているとすると、トイレに行くのに前方へ向かったというのが不自然だ。東海道新幹線のトイレは、奇数号車の東京寄りというのが、0系時代からの伝統だ。
その人物は、コーヒーが好きで、しかもすぐトイレに行きたくなるというのであれば、さんざん新幹線のトイレを使用しているから、後方の9号車のトイレの方が近いことは知っているはずだからな。」

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